これまで数々のヨーロッパの陶磁器についての記事を書いてきましたが、これからはガラス製品についての記事も徐々に書いていきますね💠
まず初めに紹介するのはハンドメイドをモットーにしているフェントン社を紹介します👆
今回の歴史の記事については2005年に出版された「FENTON ART GLASS - A Century of Success」を参考に書いています。
フランク・L・フェントン「フェントン兄弟の成長」
場所はアメリカ、フェントン社の創設者であるフランク・L・フェントンは1897年の夏、17歳でハリー・ノースウッドが工場長を務めるガラス工場の装飾部門にデコレーターとして入社しました。熱心な社員であった彼は、すぐに独自のアイデアでガラスの装飾デザインを考案しました。オパールガラスにりんごの花を描いたり、ピッチャーに幾何学模様を描いたりしているうちに、頭の中がどんどん膨らんでいき、いくつかのデザインをノースウッドの部下に直接提出したほどでした。しかし、残念なことに、入社して数週間のフランクの努力は、現場の監督には受け入れられませんでした。
それどころか、ある日、出勤が遅れたフランクは、工場長から「工場を出ていけ」と言われてしまいます。しかし、幸いそれを見ていた管理職の人に呼び止められ仕事に戻ることを許可されたというようなエピソードも残っています。まだ17歳のフェントンには社会の厳しさの良い経験となりました。その後フェントンの才能はすぐに認められ、1年も経たないうちに、ノースウッド工場のデコレーション部門の主任になっていました。
フランク・L・フェントン(1880 - 1948) 参照:フェントン公式 |
1899年末にノースウッドがイギリスに帰国してしまいます。それをきっかけに、フランクとその兄弟数名は様々なガラス工場を転々とした後、フェントン兄弟たちは独立することを決意しました。
フェントン・アート・ガラス社の始まり
1905年に事業を始めたのはフランクと兄のジョンでした。ある家族の話によると、ジョンはフランクに、事業を始めるための資金援助が必要になったら自分のところに来るように言っていたとか。1905年の初めにフランクが来たとき、ジョンは "お金はいくら持っている?"と尋ねました。フランクが「280ドルくらい」と答えると、ジョンは意気揚々と答えた。「よかった。よし、俺たちで284.86ドル持っているぞ。さあ、始めよう!」と意気込んだらしですよ。。えっジョンは私の計算が間違っていなかったらジョンは4.86ドルしか出してませんね😂
ともあれ、無事事業を始めた彼らはオハイオ州マーティンズ・フェリーでスペースを借り、近隣のメーカーのガラス製品に装飾を施すことからビジネスを始めました。レモネードセットなどを発表し新会社は大成功でした。東部、南部、中西部の各都市から注文が殺到しました。1906年の初め頃、ビジネスが波に乗ったフェントンは新たな問題に直面します。フェントンの製品を沢山の人が求めたため、装飾をするためのガラス製品を供給するのが困難になっていました。そこで、1906年10月7日、兄弟はウェストバージニア州ウィリアムズタウンの地にガラス工場の建設に取り掛かりました。1907年1月2日には、最初の商品であるクリスタル製のプレスクリーマーが新工場で作られました。
ウィリアムズタウンのガラス工場(1907年建設) 参照:フェントン公式 |
新工場の工場長には経験豊富なジェイコブ・ローゼンタールが着任しました。彼は色の化学者でもあり、数ヵ月後には、会社のレターヘッドに「ブルー、グリーン、アメジスト、ルビー、チョコレート、オニキス」の6色の記載されました。
その後のフェントン社の歴史
1907-08
フェントンが革新的な「玉虫色ガラス」を発表、スチューベンやティファニーの高価な製品に代わる普及価格帯の製品として人気を博す。他のアメリカのガラスメーカーもすぐに競合製品を発表し、このガラス製品は10年近く市場を席巻する。
1924-26
ヨーロッパから来た4人の熟練したガラス職人が、フェントンで働きながら、「ハング・ハート」などのドラマチックなアートガラスを制作する。
1929-30
約25年間にわたり、伝統的な透明色から珍しい不透明色まで、25色以上のガラスを生産するようになる。
1936-37
不況で他のガラス工場が衰退する中、フェントンは電気ミキサーを製造する会社のためにボウルを、そしてコロンや香水を製造する会社のためにボトルを製造し、事業を維持する。
1939
バスケット、クランベリーガラス、クレステッド焼、ホブネイルパターンが1930年代末にデビュー。
1940-45
海外からガラス製品を入手できないアメリカの輸入業者が、フェントンに特別なガラス製品を依頼する。
1948-49
フェントン社長フランク・L・フェントンのデザインによる「ダイヤモンドレース」パターンを発表。
1952
ミルクグラス・ホブネイルがフェントンの代表的なパターンとなる。後に、フェントンの息子ビル・フェントンはホブネイルを「我々の主力」ラインであったと語ります。
1960-69
コロニアルアンバー、コロニアルブルー、コロニアルグリーン、コロニアルピンクの透明色シリーズを発表。
1969
FentonとCracker Barrelが取引関係を開始。
1970
何年にもわたる試行錯誤の末、フェントンはカーニバルガラスを再導入。楕円形の中に「Fenton」と書かれた独特のロゴが付けられる。
1980-1989
1983年、最初のコノサーコレクションが発表される。1980年代を通じて、フェントンのミルクガラス、ビルマ、ロザリーンのカラーが人気を博す。
1986
ジョージ・W・フェントンが社長に就任し、現在も指揮を執っている。ビル・フェントンが取締役会長に、フランク・M・フェントンがヒストリアンに退任。
1988
フェントンがTVショッピング「QVC」に登場し、ビル・フェントンが最初のオンエアゲストとして登場。現在では、オンエアのゲストは他の家族にも広がっています。
1993
「ファミリー・シグネチャー・シリーズ」を発表し、現在の商品群に続く伝統を築く。
1994
フェントンのショーケース・ディーラー・プログラムが235のディーラーでスタート。現在、全国に1,000以上のショーケース・ディーラーがある。
1996
フェントンコレクターのための季刊誌「グラスメッセンジャー」創刊。最初の購読者限定品として、「ローゼル・オン・クランベリー」バスケットを提供。
2000
Fentonが創立95周年を記念し、ウェブサイト「www.fentonartglass.com」を開設。
2002
フェントン初の書籍「Fenton Glass」を出版。特にQVCのために。
2004
創業100周年を記念して、コーヒーテーブル・ブック「FENTON: Handcrafted American Glass Artistry」を出版。
2005
2005年5月4日、フェントンは100周年を迎えます。ウィリアムズタウンで7月31日~8月2日、フェントン100周年記念式典を開催。
2011
フェントン、ウィリアムズタウン工場での伝統的なガラス製造を中止。
2011
Vasa MurrhinaやCarnivalなど、Fentonの伝統的な色やガラス製造技術の多くを用いた手作りのアートグラスジュエリーの生産を開始。フェントンの才能ある職人たちは、ハンドメイドのアートガラス・ビーズに手作業で芸術的な装飾を施した美しいジュエリーをも制作しています。手仕事で装飾されたビーズには、それを完成させた才能あるビーズアーティストのイニシャルが記されています。
フェントン社の時代ごとの作品
「カーニバルガラス(1907年発表)」
カーニバルガラス製のクマのフィギュリン |
1907年末、フェントンアートグラス社は、新しいガラス製品の販売を開始しました。それは、金属塩の溶液を熱したガラスに吹き付けることで表面が虹色に輝く「玉虫色の器」と呼ばれるものでした。ローゼンタールが関わっていたことは確かです。しかし、嘘か本当か分かりませんが、フェントンの言い伝えでは、鉄道に乗ってやってきた謎の放浪ガラス職人が「新しい種類のガラスの作り方を教えてやる!」と言って教えられたとか😂
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