皆さんこんにちは。今回はドイツの名窯「マイセン」の歴史について書いていきますね😀
アンティーク好きの皆さんはマイセンの名前を一度は耳にしたことがありますよね。聞いたことはあるけど、高級で手が出しにくいなぁと思ってる方も多いと思います。この記事は、そんな方のために、是非マイセン窯のすばらしさを歴史から知っていただき、自分のお気に入りの品を見つける手助けになればと思ってまとめますね💕
東洋の磁器は「白い金」と呼ばれていた
時は遡ること17世紀、当時ヨーロッパでは中国や日本から貿易により磁器が輸入され高い評価を受けていました。その美しさから「白い金」と呼ばれ西欧の王族や貴族の間では熱狂的に取引されるほどでした。ヨーロッパ諸国でもなんとか自国でこの白くて薄くて丈夫な磁器を製造できないかと苦悩しましたが、なかなか製造法は見つからずにいました。中でもザクセン(ドイツの地名)の当時の選帝侯であるアウグスト強王は磁器の大変なコレクターとして知られ、アウグスト軍に属する兵士600人とプロイセンの王が所有していた中国の壷151個を交換したという逸話も残っています。
ヨーロッパ初の磁器製造
1701年、このアウグスト強王は、プロイセンから追放されていた錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを、他の元素から金を作ることが出来るかもしれないということで軟禁していました。しかし、現代科学を用いてしても金を合成することは核反応を用いれば出来るかもしれませんが、基本的には金は精錬・抽出をすることで得ています。まして、当時ではほぼ不可能なことでした。
ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー |
この無理難題に直面したベトガーは幾度となく逃亡を試みましたが、それも叶わず途方に暮れていたところ、「白い金」と呼ばれる磁器であればもしかすると作ることが出来るかもしれないと考え始めます。そして、先ほども述べましたがアウグスト強王は磁器コレクターということもあり、ちょうどそこには、アウグストのもとで白磁の研究に長年いそしんでいた物理学者で数学者・哲学者でもあったエーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス伯爵がいました。
そして、この2人が協力することにより、1709年ついに磁器の製造方法を発見しました。彼らは、カオリンという成分の入った土を使用することが磁器を作る鍵だということに気が付きます。カオリンと長石類を混ぜて1350度~1400度という高温状態に置くことで長石が素地と見事に融合して半透明に輝く磁器になることを解明しました。このようにして、ヨーロッパ諸国のどこよりも早く磁器の製造法を発見したザクセンの磁器産業は発展していきます。
マイセン窯の創業
磁器の製造に成功したアウグスト強王は1710年にドレスデンの地に「王立ザクセン磁器工場」を設立し硬質磁器製造の独占権を与えることとしました。そして、数か月後には磁器工場は25㎞離れたマイセン地方にあるアルブレヒト城の内部に移され、硬質磁器の製造法が外部に漏れないように厳重に保護しました。これが現在の「国立マイセン磁器製作所」の始まりです。
マイセン初期に活躍した著名な作家
「ヨハン・グレゴリウス・へロルト」
ヨハン・グレゴリウス・へロルト |
磁器を完成させたマイセン窯でしたが絵付けの技術は進化途中でした。そんな中、1720年頃シノワズリー柄に理解が深かったヨハン・グレゴリウス・へロルトが絵付師として加わることで、シノワズリーやロココ調のデザインが発展し、さらに使える色彩の種類が格段に増えマイセンの絵付けの技術が向上しました。
「ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー」
マイセン窯ではディナーセットなどの食器だけでなく、人形などのフィギュリンを作る造形分野にも力を入れ始めていました。そこに才能あふれる成型師であるヨハン・ヨアヒム・ケンドラーがアウグスト強王の目に留まりマイセンへ招かれます。当初は、アウグスト強王の強い希望もありバロック様式の造形をし、男らしく力強い大きな像を数多く生み出しました。しかし、1733年にアウグスト強王が死去してしまったことで、ケンドラーはそれまでのバロック様式ではなく、本来自分が作りたかったであろうロココ調の小さくて可愛らしいフィギュリンの制作へと方向転換していきました。そして「宮廷の光景」「羊飼いシーン」「イタリア・コメディ」など現在まで数多くの可愛らしいフィギュリンが生み出されていますね。
終わりに
今回の記事ではマイセンの300年に渡る歴史の中の本当に初期の50年ほどに焦点を当ててまとめましたが、紹介した3人のヨハンがマイセン窯に与えた影響は現在まで根強く続いており、マイセン窯を形作っていると考えています。
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